3月11日 パムッカレ〜イズミール


6:30・起床。
今日は朝から気分がいい。本日の目的地エフェソスは、この旅行においてイスタンブールの次に訪れるのを楽しみにしていた都市だからである。

朝食を7:40ごろにすませ、部屋に戻ってベランダに出た。隣室のK親子の部屋とベランダがつながっている。
ツバメの巣がある。しかも2つ。ツバメの生態に関してはよく知らないが、空のようである。
ツバメの巣 物珍しいのでベランダからK親子に知らせようかとも思ったが、女性二人が泊まっている部屋の窓をたたく、というのもなんだかいやらしい気がして、写真だけ撮っておいた。

外へ出ると、さすが観光地の名声高いパムッカレだけあって、ホテル付きの大きなプールがあり、しかし冬の寒さに無意味に冷水をたたえていた。


8:10・ホテル発。
ホテルを車で出発して2分ほどしか経っていなかっただろうか、舗装もされていない、乾燥した草原の中を行くと、周囲に無数の箱型の石が見えてくる。
箱型ばかりではない。あるものは崩れ、またあるものは石版となってはがれ落ち、原形をとどめていないものも多い。

すべて石棺。ここは「ネクロポリス」、古代の霊園なのだ。
ネクロポリス
霊園といっても、生活と隔離された空間ではない。古代、それは道路に沿って作られ、墓碑を通して死者が生者に語りかけていたらしい。
ゆく道の両側に累々と石棺が散らばる。文字の書いてあるものもあれば、ほかの棺の上に乗っかっているものもある。
細かいことまでは調べていないのでよくわからないが、ヘレニズム期からビザンツ帝国にいたるまで、この場所は1500年近く「共同墓地」として使われてきたのではないだろうか。
長年にわたって死者を迎え続け、多くの国家の盛衰を見てきた「死者の町」である、墓の種類も色々ある。

一番多いのが「石棺型」。石の棺に屋根のような形をした蓋をのせたそれは一般市民の墓であり、6〜7割がこのタイプだろう。

次に多いのが「住居型」。ジハンさんは別の表現を使っていたような気がするが、思い出せないので「住居型」としておく。もちろん家の形を模しており、中には2階建てのものもある。貴人向け。「石棺型」でなければ大方このタイプだ。

一番少ないのが「古墳型」。おそらく数基しかないだろう。土を盛って小さな山を作り、その頂上に石の球体を乗せた簡単なつくりだが、ジハンさんいわく「皇帝」の墓らしい。

余談になるが、ジハンさんは一国の世襲君主のことをおしなべて「皇帝」と呼ぶ。「王」とか「諸侯」といった日本語を知らないので、彼の前では一都市国家の主からアウグストゥスまで全てが「皇帝」なのだ。


8:15・ヒエラポリス遺跡着。
ヒエラポリスとは、古代ペルガモン王国の神聖な都市だった。
北方の町の入り口には、当時ローマ皇帝に君臨していた皇帝ドミティアヌスの名を冠したドミティアン門が3連のアーチで旅行者を迎えている。
左手にはこれまた帝国時代に建てられた大浴場が、巨大なアーチをそびえ立たせている。
ドミティアン門はどうか知らないが、この大浴場は過去の地震で倒壊し、近代になって再建されたものだとジハンさんが説明してくれる。確かにこの建造物の南には、かつて浴場の一部だったと思われるレンガが、倒壊時そのままの様子で散らばっている。

歴史(とくに古代ローマ)好きの僕にとって嘆かわしいことに、ヒエラポリスの見学時間は15分しかない。イタリアへ行くときは家族旅行なのでゆっくり見てまわることができるのだが、ツアーだとそうもいかないのが残念だ。

最初に、ドミティアン門から古代の市街へ入る。左には「アゴラ」と呼ばれる集会場の遺跡があり、建物の石柱がところどころ復元されている。

次に、もう一度ドミティアン門から外へ出て、ネクロポリスや大浴場の写真を撮る。
なぜか羊飼いが遺跡内に進入してきて、牧羊犬に吼えられる。トルコの羊飼いにとっては、観光客が集まる世界遺産(書き忘れたが、ヒエラポリスは世界遺産である)も庭のようなものなのか。
遺跡と羊
鳥笛やテーブルクロスなどの物売りが、「センエン」や「サンドル」と連呼して観光客相手に商売をしているが、あまり相手にされていない。


8:30ごろ・石灰棚着。
パムッカレの石灰棚 ドミティアン門から500メートルほど南下すると、パムッカレを代表する観光スポット、石灰棚が見えてくる。
石灰棚とは坂を流れる石灰成分を含む硬水によって表面が石灰で覆われ棚田のようになったもので、今も上から下へとお湯が流れ続けている。

そもそもここ「パムッカレ」とは「錦の城」という意味で、純白の石灰棚のことをさしているのだろう。

棚田状なので、あまり足を滑らせることなく入っていくことができる。棚の中には石灰成分を含んだお湯が流れこんでいて、裸足で入ると温かい。

そのままお湯の流れに沿って少しずつ下ってゆくと、お湯の温度がどんどん下がり、15メートルほどで足の感覚が麻痺してくるほど冷える。
棚の端には冷水の中に石灰の白い泥がたまっていて、たまに黒い粒が混じっている。よく見たらとても小さなオタマジャクシが住んでいた。

石灰棚に入ったあと、見晴らしのいい場所まで歩いて写真を撮る。
ここも、老若男女を問わず日本人が多かった。


9:20ごろ・石灰棚発。
あわただしくパムッカレをあとにする。
途中、トルコのユーロ加盟の可否についての話をする。どういう経緯でこの話が出たのか覚えていないが、ジハンさんに言わせれば、最大の問題はトルコの地域格差だという。
イスタンブールやイズミールなど、地中海沿岸で欧州寄り、観光産業も発展している地域だけならユーロ加盟の基準を満たせるが、小アジアの東、高い山の連なるイラク国境付近は生活水準が低く、住民登録も満足にできない状態だという。
更に、その地域住むクルド人が分離独立を求めて過激な行動に走ることもあり、これも大きな障害になっているようだ。

その後、寝る。


11:00ごろ・サービスステーション着。
毎度のことながら、トイレ休憩。ほかの日本人ツアー客のバスも停留している。そちらのほうが規模が大きい。

日本人が大量に来るということが事前に分かっていたのか、それともツアーの一環なのかは知らないが、サービスステーションの前に一時的な露店を作り、アップルティーや菓子類などのトルコ土産を売っている。
ジハンさんお勧めのお菓子があるというのでそれを土産用に購入。

また、別の出店ではオレンジやザクロの100%ジュースを売っていたのでザクロジュースを買う。果物を半分に切って専用の絞り機で絞る。ザクロジュース1杯で3〜4個のザクロを使い、3.5YTL(約300円)。
ザクロジュース タネや皮を取らずに絞るため少々渋いが、贅沢で上品な味わい。

11:30ごろに出発。
荒涼とした小アジアの内陸から地中海沿岸のイズミールへ向かうため、このあたりからまわりの景色が変わりはじめる。
内陸の農業といえば小麦と牧畜だったが、海が近くなるとオリーブやオレンジの木が多くなる。落葉樹が数本見えるだけだった平野も、緑が多くなる。


12:12・革製品工場着。
前にも何度か書いたが、トルコは羊が多い。よって羊の革製品の生産も盛んで、この日は売り場を兼ねた革製品工場へ行った。

まず、この工場の製品でファッションショーをするというので出迎えのおじさんについていくと、モデル用花道のある部屋へと案内され、さらに待つと大音響のBGMとともにショーが始まる。
ファッションショー 音の大きさのわりに大したショーではなく、しかもなぜかモデルの服に値札がついているので異様な感じ。

これが終わるとお約束のお買い物で、一昨日の絨毯屋に引き続き日本語の上手な店員さんが色々な手で買わせようとする。
「この服、リバーシブルだから500ドルでも1着分にすれば250ドルだよ!」
「同じものを東京の銀座で買うと5倍するよ!」
「これ、フランスに輸出されて○○(有名ブランド)の製品として販売されるよ!」
などなど、むこうも必死だ。

確かに観光客向けの生産現場だけあって縫いもそれなりだし、革製品を貧相に見せてしまうツギも少ない。そして何より結構安い。
そういう理由もあり、僕も一着買ってもらうことになった。(母は旅行前に日本で買っていたので今回はパス)

最初の言い値は「やや安め」くらいだったが、これから春になり革の需要も減るのでこれが最後の儲け時、むこうも売ることに必死。
交渉を経るにつれ最初の値段が4分の3になり、3分の2になり、最後は母の粘り強さに折れたのか、2分の1弱で結着した。母の買った革製品よりツギが少なく、値段は4分の1。
Kママもリバーシブルのジャケットを買おうかどうか迷った末、「リバーシブルだから実質半額」の殺し文句に倒れた。

ちなみに、買い物心は誘わないが面白いセリフがあったので紹介。
「お客様ココの製品買う、そのお金何に使うと思いますか?世界一のファスナーを買うのです!ホラ、YKK。結局日本の利益にもなります。」


13:20・エフェソスのレストラン着。
買い物で迷ったので少々遅めの昼食。
最初座った席の真後ろに暖房があり、熱風が背中に吹き付けてくるのですぐに変えてもらう。

メニューはチキンのスープ、カツオとタマネギの串焼き、サラダ、オレンジ、シロップ漬けのパイ。
鳥インフルエンザが騒がれているのにニワトリなんぞ食べていていいものかと少し思ったが、トリあえずおいしくいただいた。串焼きもどことなくヤキトリに似ている。

昼食後、移動前にKママと買ったばかりの革を着て記念撮影。


14:15ごろ・エフェソス考古学博物館着。
本日の目玉観光スポット、エフェソス考古学博物館。
古代の巨大都市、エフェソスから出土した品々を展示しているだけあって朝から楽しみにしていた場所である。

この博物館は「Love Street」(名前の由来はジハンさんも知らない)という通りを入った場所にあり、建物自体そう立派とはいえない。

中に入ると遠足か修学旅行か、小学校高学年くらいの子供たちが先生に引率されて見学に来ている。
母がカメラを向けると競い合ってシャッターに納まろうとする。子供たちの笑顔がまぶしい。

期待していただけあって展示品はすばらしい。順路が決まっているわけではないのでこちらも適当な順番で書く。

まず、超がつくほど巨大な男根を持った神、プリアポス像。
プリアポス氏 ゼウスとアフロディーテという至高のカップルから誕生したため女神ヘラの恨みを買い、一物を肥大させられたのだという。
像自体は1.2メートルほどだっただろうか、あまり大きくはないが、存在感はデカい。
また、この像頭がないが、ジハンさんいわく「発見した人が、一番高く売れる頭だけ取って、残りを博物館へ売った」からだという。

ローマ皇帝の胸像、頭像も数が多い。
初代皇帝オクタヴィアヌスにはじまり、彼の皇后リヴィア、2代目皇帝ティベリウス、最大領土を実現したトライアヌス、哲人皇帝マルクス・アウレリウス、その息子で暴君の悪名高いコンモドゥスなど、ローマ史好きにはたまらない方々のご尊顔が拝せられる。
オクタヴィアヌスと妻リヴィア イメージ戦略を駆使したとされるオクタヴィアヌスは美青年だし、親子だけあってマルクス・アウレリウスとコンモドゥスは似ている。
後世のキリスト教徒のイタズラか、額に十字を掘られている皇帝もいる。
在位数ヶ月で殺されたバルビヌス帝の頭像もあった。あまりにマイナーなため、「EMPEROR」と書いてあったのに日本に帰って写真を見るまで皇帝だと気づかなかったが。

ジハンさんはオクタヴィアヌス帝のファンで、一番ボロい彼の頭像に腕をまわし、愛しそうになでながら「彼の時代に、ローマ帝国ものすごく強くなりました」という説明をしてくれたが、その前に触ってもいいのか、ソレ。

迫力でいえば、残虐かつ英明だったといわれる皇帝ドミティアヌスの像(頭と左手)が凄い。
先ほど紹介した諸皇帝の像がほぼ1/1スケールだったのに対し、この皇帝、よっぽど見栄っ張りだったのだろう、頭の大きさはジハンさんの5、6倍はありそうだ。しかも童顔で小顔(というか縦につぶれたカレーパン顔)なため、本来の縮尺は8倍ほどではないかと僕は見積もっている。
ドミティアヌス帝 175センチの人間を8倍にすると直立で14メートルとなる。しかし本当の高さは7メートルだったともいう。7メートルの大理石像、完全なころの姿を一度でいいから見てみたい。
あと、ドミティアヌスに1つ質問。なぜギリシャ・ローマの石像は白目をむいたものが多いのか。

最後に紹介するのは、この博物館の目玉展示品、アルテミス像。
同じような姿のものが2体。胸から腹にかけ、おびただしい数の球体(乳房とも卵ともいわれるが、定説はない)をぶらさげ、その異形の姿は不気味のうちに神聖さを帯びている。
アルテミス像 アルテミスといえばギリシャ神話では狩猟の女神だが、この像にそんな雰囲気はない。
もともとこの地域には豊穣の地母神「キュベレー」崇拝があり、この「エフェソスのアルテミス」もその系譜に連なるとされる。

他にも古代の装飾品や大理石のレリーフなどがかなりの点数あったが、紹介しだすとキリがないのでこのあたりで。

15:00に博物館を出発し、南方にそびえるブルブル山へ。
山を登っていくと、途中に女性の銅像がある。スラリと背が高く、9頭身ぐらいありそうだ。
彼女の名前はマリア。あるいは「テオトコス」、神を生む者。


15:20・聖母マリア教会着。
車を降りて少し歩くと、右手にエーゲ海が見える。
ブルブル山からのエーゲ海 海が見えるといっても海面がそのまま見えるのではなく、曇りがちな空からの薄い光に水面が反射してその存在を知らしめているため、むしろこの場にふさわしい。

「この場所」とは一体何か。

キリストの死と、その復活後、彼の母であるマリアの消息は長い間謎に包まれていた。
18世紀の末、アンナ・カテリーナ(カレリーナではない)という修道女が、マリアが晩年から最期まで過ごした地についての啓示を受け、発見されたのがここにある家(現在は教会)だという。

この聖母マリア教会、もとが隠遁生活用の家だけあって小さい。

ここにも遠足で子供が来ており、狭い教会の入り口から長い列を作っている。この列に並ぶこと数分、中に入ってみるとかなり暗い。
教会の一番奥には黒いマリア像が安置されており、近くにやさしげなシスターがひとり。マリア像には赤い花がそなえられているのがわかる。

中は写真撮影禁止だったので写真の掲載はできないが、(しかし、いろいろなサイトや本で結構ここの写真を見かける)華美さのかけらもない、それゆえに100%純真な「神聖さ」とかそういうものが感じられる。ルネッサンスやバロックがいくら資本を投じても完成できない雰囲気なのだ。

教会から出ると、オーストリア人のお兄さんに
「日本から来たの?俺はモーツァルトの出身地、ザルツブルクから来たんだ。」
と話しかけられるが、オーストリアをオーストラリアと聞き間違えて、
「ああ、僕もオーストラリア行ったことあるよ。ケアンズはいいとこだった。」
と返答してしまった。
向こうはワケワカラン、という顔をしていたが、こっちが取り違えたせいなのか、こっちの発音が悪かったのか。

そして、こういう場所にはつきものの「願い事」ゾーンもある。
聖母マリア教会の近くに病が治るとされる泉があり、その近くの金網に願い事を書いた紙を結んでおくと願いがかなうらしい。
僕以外の3人は何かしら願望があったらしいが、私利私欲のためにマリア様に頼みごとをする気にもならず、かといって「世界が平和になりますように」なんて書く気のない僕は白紙のまま結んでおいた。


16:00ごろ・エフェソス都市遺跡着。
聖山ブルブルをくだり、古代の建築などが多く残るエフェソスの都市遺跡へ。
エフェソスといえばローマ帝国の時代においてローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの3大メトロポリス(のちにコンスタンティノープルが入る)につづく大都市で、先ほど考古学博物館で見たアルテミスを祭る神殿があったことでも有名だ。

この遺跡、もとの市街の18%しか発掘されていないのだが、それでもすごい規模。その詳細を以下に記す。
入場すると、右手に半円形、すり鉢型の階段が見える。「オデオン」と呼ばれる古代の音楽堂で、昔はここでコンサートなどが開かれていたそうだ。

少し進むと「ヘラクレスの門」がある。市外と市内を隔てるものではなく、装飾的な門のようで、近くにこの門を飾っていた勝利の女神、ニケ(ナイキ)のレリーフがある。
次は「トライアヌス帝の泉」。ローマ帝国の最大版図を実現し、文字どおり世界の覇者となったトライアヌス帝の石像が地球をあらわす球体を足元に従えて雄々しく立っている・・・はずだったのだが、なにせ1900年も前の建物なので現在は皇帝の片足首と球体、それに建物の一部しか残っていない。
エフェソス都市遺跡
泉の裏手にあるのが古代の公衆トイレで、座れるように地面から一段高くなった場所に穴(正確には事後の洗浄用に前部金隠しも開いているので穴ではない)が連なって開いている。下には下水道のあとがあり、いわば水洗なのだ。

そして目玉の「ケルスス図書館」。アレクサンドリアの大図書館に続く知の宝庫だった場所であり、いかにも繊細で格式のあるつらがまえをしている。このあたりの建物や墓碑にはギリシャ文字が書いてあってまったく読めないのだが、この図書館の向かって右側にあるアーケードにはラテン語で色々書いてあるので意味はつかめる。

ケルスス図書館ラテン語の碑文 この図書館の前が「マーブル通り」で免税店や売春宿が左右にのきを連ねていたそうだ。この通りの石畳の一枚には女性やハートの絵が掘られており、古代の娼館の広告だと言われている。

最後のオオモノは大劇場で、ヘレニズムからローマ時代に建築されたものである。山の斜面に沿って作られた劇場だけにかなり大きく、上のほうからはエーゲ海も見える。最大2万5千人を収容できたというから驚きだ。
さらに驚いたのは、この劇場の音響である。舞台にいるジハンさんと劇場の頂上にいる僕とでは50メートルは離れているはずなのに、ジハンさんの声がものすごくよく聞こえる。まるでマイクを使っているようだった。
大劇場
それ以外にも古代のサッカー場(のような施設の遺跡)があったり、やっぱり猫がたくさんいたりした。

それ以外で言及すべきは、エフェソス都市遺跡の出口にある土産屋で
「トモダチ、ビンボー。ニホンジン、ビンボー。オジョウサン、サラバジャ。」
という意味不明瞭な客引きにあったことぐらいだろうか。

17:15ごろに出発。


17:20・アルテミス神殿跡着。
先ほど、エフェソス考古学博物館で見た不思議なアルテミス像について書いた。
古代、この地においてアルテミスは地母神。女神の中では最高位に君臨していた。
そのアルテミスを祭った神殿が豪華でなかったはずがない。このアルテミス神殿は世界七不思議にもかぞえられ、その編纂者であるアンティパトレスはこう言っている。

「アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚き(他の不思議のこと)はすっかり霞んでしまった。私は言った、『見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった』。」

しかしそれも昔の話。

現在はススキのはえた草むらに、わずかに復元された一本の柱がポツリと立っている。
アルテミス神殿跡
アルテミスは、古代から崇拝されてきた地母神キュベレーの属性を吸収した女神、アルテミスは滅びたのか。
アルテミスの死については多くの人が語る。ジハンさんも語る。

「最初の女神、キュベレーは昔の人のお母さんでした(キュベレーは通常、豊満な体つきをした土偶で発掘される)。あとから、ギリシャ・ローマ人はアルテミスをお母さんとしてお祈りしました。キリスト教徒にもお母さんがいます。それは、マリア様です。」

キュベレーも、アルテミスも、エフェソスとその周辺地域で崇拝された女神である。
そして、聖母マリアが晩年をすごしたのもエフェソス郊外だといわれている。
世界一歴史の長い「お母さん」の伝説は、今もこの地にあるのだと実感。

ポツポツと雨がふるなかを出発。
雲ゆきがあやしくなるとともに大雨が降りだし、紫色の空に稲妻が走った。それこそ神のたたりなのではないかと思ってしまうほど荒れ狂う天気の中、ホテルへ。


18:40・ホテル着。
イズミールのカヤ・プレステージ・ホテル着。
次の日に備えて22:00に寝る。





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